最近、選択的夫婦別姓の制度に、なぜ反対する人が多いのかな、と
考えた、その事について今回は書いてみたい。
まず、そもそも名前というものは何か? と。
基本的には、個人を識別するための記号だよね。
もし名前が存在していなかったら、学校でも職場でも、これは、ちょっと困った事になるという状況が容易に想像できる。
仮に山田花子さんという名前の人が職場にいて、名前がない世界であったら、ちょっと何やら相談したいときか、困っちゃうもんね。「あの、これ教えて欲しいのですけど」って話しかけるいかないしさ。
だから、集団で行動する我々、人間には名前というものが必要不可欠になってくる。
まあ、苗字の存在から血縁とかが分かる、っていう機能もあるんだろうけれど、江戸時代とかまで遡ると、庶民は苗字なんかなかったわけじゃんね。どこどこ村のだれ兵さん、とか、そういう社会だったわけで。
だから、究極的にいって名前というのは「ただの識別記号」にすぎない。そう考えちゃうと、効率だけでいったら、家畜のように数字とアルファベットの組み合わせが、一番合理的かもしれない。「DK387」とか。まあ、それじゃ、あまりに殺伐としているから、「太郎さん」やら「花子さん」みたいな名前が必要になってくる。
だから、夫婦別姓やら、なんやら、に反対する人たちは、あまりに名前という存在にこだわりすぎなのだ。
べつに名前なんか、そう大したものじゃない。人と人とを識別しやすくするだけのものだ。
大事になってくるのは、名前そのもじゃなく実質的に、その人間が、どういう人間かだ。木村拓哉の大ファンなのか? 休日には寺社仏閣巡りをするのが好きな人なのか? そういう部分にこそ本質があるわけじゃん。実際、例えば芸能人とか芸名があって、本名より芸名の方が、社会に名を馳せている、なんつーパターンもあるわけじゃんね。
怒られちゃうかもだけど、名前なんか、そんなもんすよ。
時代時代に合わせて、やりやすいシステムに柔軟に変えていけば、いいだけの事象だとわたしは思いますよ。■