The Catcher in the Rye

日記ブログです。気が向いたら読んでいってください。

外見と、自意識の檻。

最近、外見についてよく考える。

 

例えば、美しい外見をもつ女性や男性は、確かに、いろいろな面において得をしているとは思う。

 

就職とか、見目麗しい方が得ということを我々は経験上しっているし、また、よく問題になっている学生の売春にしたって、若く美しい個体には、値段がつく、ということを、売っている方も認識しているのだ。

 

では、外見が優位性を発揮するとされる恋愛市場ではどうか? と。

 

イケメンや美人が、本当に恋愛市場で、得をしているか? という事を考えると、

実は私はそうでも無いと感じるのだ。

 

恋愛とはコミュニケーションで、中身の相性が結局、重要になってくる。外面で惹かれあっても、性格が合わなければ上手く行くものでも無いであろう。

 

外見のメリットとは、恋愛市場の入り口に到達しやすい、という点につきる。

 

仲の良い、お互いに一緒にいて楽しそうなカップルというのは、結局、外面ではなく

内面が共鳴しあっている、ということで、そこにたどり着くというのが、目的なわけじゃんね。

 

美女だと、いろんな男性から貢がれて幸福というかもしれんが、好きでも無い男性に体目当てで貢がれたところで、たいして幸福では無いだろうし、それがどうした? としか思えない。

 

じゃあ、外面の持つ意味で一番、重要なのは何か? 結局、自己認識だと思うのだ。自分が美しい、かっこいい、という認識は、自分自身に強烈な陶酔感を与える、、、と思う。

 

この自己陶酔を得られる、というのが、美しい外見の持つ意味なんだと思うのだ。

 

結局、他者の目線というのは、あまり意味がなく、自分が自分自身に納得できる、

ということが、大事なことなんではなかろうか?

 

つまり、外見など、客観的にみれば、たいして意味がないのだ。

しかし、主観的にみれば、大きな意味性があり、そこにこそ、実は大きな意味がある。

 

要は、気の持ちようである。

 

我々は自意識という名前の檻に、収監されておる囚人ではあるけれど、その檻というのは、勝手に自分自身が作り出した幻想の檻だ。

 

つまり、他者から見れば、その檻など、どーでもいいことなのだ。

 

たとえ、自意識の檻は破壊できなくても、そのことに気がつければ、我々は、少し楽に生きられるのではあるまいか? と思う。

 

どうであろうか?■