LGBTという単語がある。
Lはレズビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシャル、Tはトランスジェンダー。
最近、YouTubeで、LGBTの中のトランスジェンダーの方の動画を見ていて
少し疑問に感じたことがあった。
トランスジェンダー、つまり性同一性障害者は、男性の身体で産まれ、
内面的には女性、あるいは女性の身体で産まれ内面的には男性、という状態の人を指す。
つまり内面と外形が不一致しており、その結果、彼ら彼女らは、外科手術を受け、
身体を変え、内面と外形を一致させる。
それは、個人個人の自由意志であるし何の問題も無いし、尊重されえるべき行為なのだけれども、個人的に、感じたことがある。
産まれ持った身体が、男性か女性か、なんていうのは、それほどに重要なことなのか?
という疑問だ。
もちろん、トランスジェンダーの方にとっては、死ぬほど深刻な問題である、というのは理解できるんだけどさ。
でも感情的な部分で、どうしても、身体が女性か男性かなんて、どうでも良く無いか?
と感じてしまうのだ。
現代社会において、性別など、ほとんど意味がないと思うのだ。
現代は、石器時代、狩猟採集の時代のように、男性は狩りをし、
女性は山で薪(たきぎ)を集めていた男性と女性の役割が明確に線引きされていた時代、では無くデスクワークが主流の時代。
そこには性的役割分担など大きな意味性を生活において持たないわけじゃんね。
そうであるなら、男性らしさ、女性らしさ、なんていうものは、ほぼ無意味な価値観で、
男性だろうと女性だろうと、生活において、会社に行き、賃金を稼いで、家では家事も育児もするわけじゃんね。今のご時世。
この性差が曖昧模糊とした時代に、なぜそこまで、生まれ落ちた身体の外形に、こだわりを持ってしまうのだろうか? と感じるんだよね。
別に性別なんかどっちでも良くて、生まれ持った身体に適当にアジャストさせて、生きれば良いんじゃないの? って思うっちゃうんだよね。
それじゃ、ダメなのだろうか?
人間なんか、外形的に男性だろうが女性だろうが、内臓はほとんど変わらないわけで、
ただの血とタンパク質の塊だろう。
であるのに、なぜ、大きなリスクを冒してまで外形を変えるのか?
ちょっと理解に苦しむ。
でも、だよ、もちろん外科手術で性別を変えるのがダメとか、気持ち悪い、とか思ってるわけじゃないからね。単純に、理解に苦しむ、というだけの話だ。
男だ、女だ、小さいことに拘りすぎなんじゃないんかね? と思うっちゃうのだ。
いや、でも、本人とっては大きな問題なんだろうけど、外野で無責任に傍観していて、ふと感じたのだ。■